商品紹介

  • この兵士俑は副葬品で、埋葬者の身を護る役割を持つ。中国・新疆ウイグル自治区トゥルファン地方の古墳からの出土。制作時期8世紀。像高27.4cm。

    西本願寺第22世宗主大谷光瑞(1876-1948)率いる西域探検隊(大谷探検隊)が日本に持ち帰った多数の西域美術品の1つ。その多くは現在、東京国立博物館、龍谷大学、韓国の国立中央博物館、中国の旅順美術館・北京両博物館、日本の民間コレクションなどに分蔵されている。

    この兵士俑は某民間コレクションから古美術桃青が購入し、新たに古木で台座部分をつくり、像を取り付けたもの。これと同手の兵士俑を出光美術館・根津美術館も所蔵している。

    右腕、兜の先端、足先などが欠損しているが、彩色が残っており、全体としての保存状態はよい。これは、トゥルファン地方が極度に乾燥した気候の土地であることによる。足先が欠損しているが、そのおかげで木芯が見え、制作技法が確認できる。胴と脚部の茶色の輪は、兵士俑を立たせるための取り付け金具。また像の表面が毛羽立って見えるのは、俑づくりの際、粘土に繊維を混ぜてつくった塑土が使われたため。

    資料画像の出典:至文堂『日本の美術No.434 大谷光瑞と西域美術』p.64 上は出光美術館、下は根津美術館所蔵のもの。

  • 特別展「アンニョンハセヨ!元暁法師」(神奈川県立金沢文庫)に出陳された『判比量論』断簡が返却されましたので、当HP上で公開します。現物をご覧になりたい方は古美術桃青に電話(℡03-3571-1233)連絡の上、ご来店ください。
    また、この断簡について研究、学術発表した慶応義塾大学岡本一平先生の論文をご覧いただくこともできます。 なお、この『判比量論』断簡は非売品です。

    表装された『判比量論』断簡および本紙

    『判比量論』断簡の翻刻

    金沢文庫展示時の解説

    金沢文庫に展示された『判比量論』断簡

  • 平安時代中期以降、鏡のデザインが徐々に唐鏡(中国)の影響から脱して和様化が進みます。画像の3点には小鳥・草花・葦(薄)・蝶・楓・流水など日本の自然風景が生き生きと描かれており、平安貴族の「美」の好みを知る手がかりともなります。

    径 上左:8.4cm 上右:8.0cm 下:11.4cm

  • 雪村は室町時代後期~桃山時代の画僧。もと常陸の武士。水墨画を多く残した。

  • 江戸時代前期の僧であり仏師の円空(1632-1695)が彫った仏(神)像です。円空の作品を総称して「円空仏」と言っています。
    円空は鉈や鑿を駆使して仏像や神像を彫っています。その彫技やスピード感は円空特有のものがあり、またアルカイックスマイルをたたえた仏(神)像の表情は飛鳥仏に負けないくらいと評価されています。

    円空仏の存在を世の中に広めた元岐阜大学教授土屋常義先生の箱書

  • 俵屋宗達が描いた風神雷神図をイメージさせる金銅飾り金具です。朝鮮・三国時代の出土太刀に類似飾り金具を見ることができます。この金銅飾り金具は、金の質から判断して、同時代か、少し時代の下った統一新羅時代のものと推定しています。天地2.5cm、左右2.5cm(両者とも)。額装(天地13.5cm、左右18.6cm)。

  • 正方形の角皿です。表面にはヤマフジの木が画面いっぱいに描かれ、裏面には大きな文字で「乾山」と書かれています。ヤマフジの絵は兄尾形光琳に負けないくらいの出来映えです。

  • 特長  李朝時代にはいろいろな形の水滴がつくられました。中でも白磁で、方形、(半)球形といったきわめてシンプルな形の水滴が日本人コレクターの好みに合い、その形から前者は「豆腐」、後者は「ひざ小僧」という愛称で親しまれてきました。「豆腐」や「ひざ小僧」には、染付とか陰刻とか陽刻などは当然ありません。
    今回ご覧いただいている李朝白磁水滴は「ひざ小僧」です。直径12.5cmの大きな半球形です。かつて大阪東洋陶磁美術館で開催された『李朝の水滴展』の同類のものより一回り大きく、李朝後期の分院窯初期のものと思われます。実用品としてだけではなく、インテリアグッズとしても楽しめる一品です。ほぼ完品ですが、全体に使用痕のスレ、注ぎ口に小さなホツがあります。
    時代  李朝時代後期(18c.後半.)
    サイズ  高さ13.1cm 直径12.5cm
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    TEL 03-3571-1233

     

  • 蕎麦茶碗は高麗茶碗の一種。通常蕎麦茶碗は、見込の浅い平茶碗の形をしたものが多いが、この蕎麦茶碗はやや見込が深い。釉薬は灰青色で、見込に5つの目跡がある。蕎麦の名称は、井戸のソバという意味とも、釉薬中に蕎麦殻のような黒い粒が見られるためともいうが確かなことは不明。李朝時代中期、16世紀ごろの作と推測され、日本には室町時代末期には請来されている。